ドキュメンタリー映画の部屋inアジア

アジアのドキュメンタリー映画専門チャンネル「アジアンドキュメンタリーズ」配信作品の感想を綴っていきます。

ビルマVJ 消された革命

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ビルマVJ 消された革命 原題:Burma VJ: Reporter i et lukket land 2008年製作/作品時間85分 撮影地:ミャンマー 製作国:デンマーク

 今回紹介する作品は、特集【ミャンマーの苦悩】より「ビルマVJ 消された革命」です。

作品概要

 2007年、軍事政権による独裁が続くビルマミャンマー)で、規模な反政府デモが行われました。当局による厳しい情報統制下で、ビルマ国内の様子を世界に発信したのは、勇敢なVJ(ビデオジャーナリスト)たちでした。彼らは、危険を覚悟でハンディカメラを回し続け、軍部の残虐さ、厳しい圧政の実態を、世界に知らしめました。本作は、当時、ビルマ国内で秘密裏に記録された膨大な映像を整理・再構成し、ビルマ民主化運動と、独裁政権による抑圧の実態を、赤裸々に映し出すドキュメンタリーです。

見どころ

溢れる熱量と臨場感

 この作品の特長は、なんといっても映像の臨場感です。政権側の暴力も辞さない強硬姿勢を伝える映像は、この問題を考えるうえで非常に重要な資料でもあります。現地で射殺された、日本人ジャーナリストの長井健司さんの姿も捉えています。デモと軍事政権が衝突する現場に漂う緊迫感を、その場にいるかのように実感できます。

立ち向かう人々

 軍事政権の弾圧の中で、危険を冒して撮影された映像からは、社会を変えようと立ち上がる人々の熱意と、それらを発信することに対するVJたちの使命感が、ひしひしと伝わってきます。デモの先陣を切った僧侶たちは、政治とは縁のない存在ですが、彼らは苦しむ人々のために、民衆を鼓舞します。非暴力・非服従の信念を曲げない人々の、力強さに心を打たれます。

ジャーナリストの矜持

 本作の映像のなかには、ジャーナリストたちの姿を捉えたものもあります。放送局「ビルマ民主の声」として活動するジャーナリストたちは、民主化運動にとって、国内の情勢を世界に知ってもらうことが大切だとわかっていました。圧政に抗うには、個人は無力な存在です。事実を記録し、発信することが、国を変えることに繋がるのだと確信していたのです。軍事政権を倒すため、ビデオを回し続ける、ジャーナリストたちの矜持を、感じることができます。

 

 この作品の途中で、ある違和感を覚えました。その映像には、たくさんの人間が映っています。デモをする人、それを撮影する人、そしてデモ隊を取り押さえる人。軍隊の制服や、僧侶の袈裟のような「記号化」された姿では気づきにくかったのですが、争っている人は、みな「同じ人間」なのです。

 政権による弾圧という「わかりやすい敵」がいるかのような問題であっても、じつは「同じ人間同士」の問題であるということに、気づくことは難しいのかもしれません。

 軍事政権の残虐さや、立ち上がる民衆の姿も、伝えなければならない事実なのは間違いありません。しかし、なによりも私たちが知らなければならないのは、人間を弾圧しているのは、同じ人間であるということ、そして、私たちにも、そうなってしまう可能性が秘められているということではないでしょうか。

 

ビルマVJ 消された革命」はアジアンドキュメンタリーズで配信中です↓

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ナーガ 永遠のヨギ

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ナーガ 永遠のヨギ 2016年製作/インド/作品時間72分

 今回紹介する作品は、特集【ヨーガの世界】より「ナーガ 永遠のヨギ」です。

作品概要

 ヨーガを行う者を「ヨギ」といいますが、インドで極限のヨーガの実践に人生を捧げる人々がいます。禁欲主義を徹底し、衣服すら放棄し、瞑想に勤しむ彼らは「ナーガ」と呼ばれ、古来よりインド、ヒンドゥー教の世界で聖者として伝承される存在です。彼らはなぜ、全てを捨て、あまりにも過酷な修行にその身を捧げるのでしょうか。数千年の歴史を持つヨーガの世界に生きる人々を、迫力ある映像で描いたドキュメンタリーです。

※作品中に全裸の修行者が登場しますが、作品の意義や作家性を尊重し、映像を修正、改変することなく配信しています。(アジアンドキュメンタリーズ公式ホームページより)

見どころ

ヨーガの世界観

 ヨーガとは、内省を極めることだといいます。自分の中に宇宙を見る、という言葉が印象的でしたが、自分という存在をとことん見つめることで、自分を理解し、世界を理解することができるのです。また、彼らは身体に灰を纏い、「自分に星を着せる」ことで、全てから護られるというのです。修行に勤しむ彼らの姿は、とても神秘的で、これまでヨーガの世界を知らなかったとしても、何か不思議な力を感じることができます。

あまりに衝撃的な苦行

 私たちが普段耳にする「ヨガ」というものは、スポーツや健康促進的な意味合いの活動であることがほとんどです。しかし、「ナーガ」と呼ばれる修行者たちの「ヨーガ」は、それとは全く異なる、過酷なものです。片腕を挙げ続けて爪が伸びっぱなしになっている者や、12年間ずっと言葉を口にしない者など、あまりに衝撃的な苦行を続ける彼らの姿に、唖然とするに違いありません。

伝承される「ナーガ」

 「ナーガ」の修業は、口承によって受け継がれてきました。そのため、師弟の絆は固く、彼らは「共鳴」するのだといいます。また、インドでは義務教育の代わりに寺院に子どもを預け、神聖な伝承を学ばせることが認められています。服を着ないことが違法であるにも関わらず、全裸の修行者は受け入れられています。このように、インドでは今も脈々と、ヨーガの世界観、そして「ナーガ」という聖者の存在が伝承されているのです。

 

 ヨーガは、「全体の崇拝」であるといいます。内省を重ね、自分を見つめることで、自分と世界の連帯を感じます。そして、肉体を超越した世界で、種族、性別、年齢といった障壁を超え、人間全体でひとつの存在であると理解するのです。

 多様性が叫ばれる社会で、私たちは様々な問題に直面しています。人間は自らの感情に支配されやすい存在です。全ての人類が「ナーガ」のような修行者になることは難しいですが、彼らの生き様を見ることで、自分がいかに小さな世界でもがき苦しんでいたのかを知ることができます。そして、広い世界を知ることは、小さな違いを持つ隣人を受け入れることに繋がるはずです。

 目を閉じて、自分の中に広がる「宇宙」を見つめてみてください。それは、修行には遠く及ばずとも、意味のある行為です。なぜなら、純潔な彼らも、私たちも、同じ人間なのですから。

 

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太陽の塔

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太陽の塔 2018年製作/日本/作品時間112分

 今回紹介する作品は、特集【人類史を紐解く】より、「太陽の塔」です。

作品概要

 1970年、高度経済成長に沸く日本で「人類の進歩と調和」を掲げて開催された大阪万博にて、そのシンボルとして芸術家・岡本太郎が制作した「太陽の塔」は、万博が終わっても取り壊されることなく、大阪を象徴する存在の一つとして現在まで愛されています。本作では、激動の時代を生きた太郎が「太陽の塔」にどんな思いを込めたのか、様々な分野の専門家や芸術活動に携わる人々からの取材を重ね、検証してゆきます。芸術とは、そして人類とは何かを見つめなおすきっかけになる、話題作です。

見どころ

人類は進歩などしていない!

 大阪万博では「人類の進歩と調和」を主題に、過去を否定し、未来に希望を見出す思想が人々を包んでいました。斬新な芸術の代表者として白羽の矢が立った太郎ですが、彼はこの「進歩と調和」に疑問を抱いていました。「太陽の塔」の展示は、新しいものづくしの万博で、生命の歴史と、人類が抱える矛盾に正面から向き合い、そんな社会を支えているのは無名の大衆であると、訴えたのです。

「縄文」に惹かれた太郎

 太郎は、縄文時代の土器をはじめ、その時代の人類が持つ精神性に強い関心を持っていました。縄文時代は、狩猟・採集の時代です。農耕が始まり、階級の存在する社会が構築されてから現代に至るまで、私たちは同じ作業を繰り返す機械のようになってしまったといいます。近代というシステムに抜け落ちている「生命力」を、太郎は取り戻すべきだと考えていたのかもしれません。

曼荼羅」としての太陽の塔

  「曼荼羅」とは、仏教の世界でその「宇宙観」を立体化して表現したものです。太郎は、太陽の塔曼荼羅であると、明言しています。太郎が重視した曼荼羅の概念とは、全ての物事は融通無碍に繋がりあっている、というものでした。生命の歴史を、アメーバから人間まで繋ぐ「生命の樹」の展示は、太郎が大切にしていた世界観を「曼荼羅」として表現したものだと考えられます。

 

 原子力は、私たち人類が「人工の太陽」を生み出したとも言われた、画期的なエネルギー資源の発明でしたが、人類は結果として核兵器の問題や、事故による汚染など、様々な代償を負うことになりました。

 太陽の塔「太陽」の名を冠しているのは、太郎が私たちに「人工の太陽」が手に負えないものであることを示唆してるようにも感じます。現に、太陽の塔は万博が終わってからも、取り壊されずに残されていますが、これは、太陽の塔という「もう一つの人工の太陽」を壊せなかった、つまり「手に負えなかった」という結果によるものと捉えることもできます。

 検証と想像によって、太陽の塔から読み取れるメッセージは無限に広がります。時代や人によって、同じものから受け取るメッセージは変化しうるものです。太陽の塔が、時を超えて存在するものだと太郎が想定していたのならば、彼が私たちに期待していることは、私たち人類が内に秘めた何かに気づき、「覚醒」することなのではないでしょうか。

 

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列車街

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列車街 原題:My life as a Cowboy 2018年製作/作品時間76分 撮影地:スリランカ 製作国:スリランカ

 今回紹介する作品は、特集【スリランカの傷跡】より、「列車街」です。

作品概要

 スリランカには、列車とスレスレの線路脇で生活する人々がいます。彼らの出自は様々で、内戦の原因となった、対立する民族同士も一緒になって暮らしています。食肉処理施設が近くにあるからと、政府に「ヤギ小屋」と名付けられたこの街は、抑圧された住民たちの団結により、守られてきました。「列車街」で暮らす人々の生き様に迫るドキュメンタリーです。

見どころ

線路の上の生活

 彼らの生活スタイルは、あまりに衝撃的です。線路の脇はおろか、線路の上を歩き回り、そこに机を置いて物を売ったりしています。そして、列車が通る時間には、急いで線路の脇に逃れ、列車が通り過ぎるのを待つのです。子どもたちは線路の上で遊びまわり、線路を歩いて学校に通います。彼らにとっては、それが当たり前のことなのです。

街の人々の団結

 この場所はもともと、タミル人が暮らしていた土地でしたが、シンハラ人が移り住み、話し合って共に暮らすようになったという歴史があります。民族間の対立により長く内戦が続いていたスリランカですが、この街の人々は民族を問わず団結しています。彼らは、スリランカの民族間の融和の象徴のように思えますが、彼らが民族を問わず、抑圧された存在であったことを示しているとも言えるでしょう。

立ち退きを強いられる街

  ある住人は、この街を「美しい」とさえいいます。抗うことのできない、絶対的な存在である「列車」と、そこに生きる人々の力強さと儚さを醸し出す「街」の対比は、ある種の美しさすら感じさせます。

 政府によって、路線の拡張が計画されていることで、彼らは立ち退きを迫られています。もともと、国の鉄道部の土地に「違法に」生まれたこの街は、消滅することが、正しい在り方なのでしょうか。

 

 原題である「My life as a Cowboy」(カウボーイとしての僕の人生)は、この街のとある少年の、この街での暮らしを喩えた言葉です。様々な人が暮らすこの街は、俳優を夢見る少年にとって、映画の中の出来事のように魅力的なのです。それがたとえ、過酷な環境であり、貧しく、抑圧されたものであったとしても、です。

 カウボーイもまた、過酷な環境で生きる存在です。それではなぜ「カウボーイの人生」は魅力的なのでしょうか。開拓者であるカウボーイは、自身が生きる場所を、自分の力で切り拓いていく存在です。その力強さに、後世に生きる私たちは、憧れ、魅力を感じるのです。

 そして、列車街には、かつて街を「開拓した」人々の力強い魂が、いまも息づいています。そんな街の姿を見ると、私たち人間が持つ「開拓者」としての力強さに気づかされます。私たちの「カウボーイとしての人生」は、それに気づいたときに始まるのです。

 

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ケージで暮らす人々

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ケージで暮らす人々 2018年製作/香港/作品時間25分

 今回紹介する作品は、特集【変わりゆく香港】より、「ケージで暮らす人々」です。

作品概要

 市場原理により、金持ちが異様なほど裕福になった街、香港。所狭しと並び立つアパートの価格は高騰し、深刻な格差社会で苦しむ貧困層は、住む場所すらままならないのが現状です。本作品では、ソーシャルワーカーのある女性が、ケージのような狭い場所で極限の生活を送っている人をはじめ、貧困層の生の声を伝えるべく奔走する姿を追います。一国二制度の名のもと、民主社会を謳う香港の、民主社会とはかけ離れた現状を、「住宅」の在り方を通して浮き彫りにするドキュメンタリーです。

見どころ

「住宅」として可視化された格差

 タイトルの「ケージで暮らす」とは、決して誇張した表現ではありません。超格差社会の香港では、狭い部屋の中に重ねたケージの中で日々を送る貧困層が、20万人もいるのです。身動きをとることも難しいような生活環境は、とても文化的な生活とは言えません。尿の臭いが漂う階段の先で、窓の無い部屋で暑さに耐えながら暮らす女性の姿は、とても印象的です。

死ぬことですら金がかかる

 香港の地価高騰により潤っている業種の一つとして、寺院があります。火葬が一般的な香港では、景色の良い納骨堂には、莫大な金額がかかるのです。死に場所においても、目に見える「格差」が付きまとう現状は、市場原理の究極の姿といえるでしょう。

貧困をなくすために

 ソーシャルワーカーの女性は、定期的に貧困地域を訪ねて周っています。地道な活動を続ける彼女の姿からは、「香港の貧困をなくす」という強い思いが伝わってきます。そして彼女は、上流階級の人々が、最下層の生活に気づいてくれるように願っているのです。

 

 本作に登場する貧困層の人々は、その社会構造に飲み込まれ、とても無力な存在として描かれています。格差は世代を超えてより広がり、貧困層に生まれた子供たちは、生まれながらにして、明日の寝床や食事に、悩まされることになります。

 貧困、格差の問題を解決するには、上流階級の人間が手を差し伸べるほかないのです。富める者がますます豊かになり、貧しい者の苦しみから目を背ければ、負の連鎖はずっと続いてゆきます。この社会構造は、行き詰った人々を戦いに駆り立て、内戦や虐殺といった悲劇にすら繋がりかねません。

 市場原理の成れの果てに、愚かな悲劇を生まないために、資本主義社会に生きる私たちは、ケージで暮らす人々のことを、忘れてはいけません。

 

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人間機械

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人間機械 原題:MACHINES 2016年製作/作品時間71分 撮影地:インド 製作国:ドイツ、フィンランド

 今回紹介する作品は、特集【工場で働く】より、「人間機械」です。

作品概要

 インド北西部にある巨大な繊維工場には、劣悪な環境で働く労働者たちがいます。長時間拘束され、不平等な労使関係のなかで労働力を搾取される彼らは、まるで、工場を構成する「機械」のように扱われているのです。インドの著しい経済成長の裏側で続く、出稼ぎ労働者たちの過酷な現状を告発する本作は、同時に、巨大な作業機械が稼働する工場内の異質な雰囲気を、ある種の「美しさ」すら感じさせる、カメラワークと音響で描き切った芸術的作品でもあります。

見どころ

搾取される労働者たちの現状

 本作の舞台である繊維工場では、多くの労働者が出稼ぎに来ています。家族のため、子供を育てるために、過酷な環境でも必死に働いているのです。彼らには、福利厚生やボーナスはおろか、労働組合すらありません。工場や会社に、労働条件の交渉をすることもできません。一方で、経営サイドは、成長するインド経済の恩恵を受けつつも、労働者を「生かさず、殺さず」使うことが当たり前になっているのです。労使の壁は厚く、貧しい者と富める者の格差は大きくなる一方です。

 本作の後半、カメラを向けられる多くの労働者たちは、「あなたたちも、取材を終えれば帰るのでしょう。演説をして帰る政治家と同じで、何もしないのだ」と、画面を通じて、私たちに訴えかけます。

「不快で、美しい」工場の息遣い

 巨大な繊維工場の内部には、多くの作業機械が稼働しています。本作では、それらの不気味な姿と、繰り返し響く機械音を丁寧に捉え、まるで工場の内部に入り込んだような感覚を味わうことができます。そして、機械と機械との間に埋め込まれている労働者たちは、まさに「人間機械」とでも呼ぶべき状態です。この異質な光景は、私たちの本能に、人間のあるべき姿と乖離していることに対する「不快さ」と、同時にある種の「美しさ」を感じさせるのです。

 

 グローバル経済の中、労働者の搾取による工業製品は、私たちの生活にもすっかり入り込んでいます。つまり、私たちもこのような問題の当事者なのです。見て見ぬふりをする「何もしない隣人」であってはならないと痛感しつつも、一人ひとりの力の弱さに絶望してしまうかもしれません。

 ところで、この工場の光景から感じる「美しさ」とは、一体何なのでしょうか。

 私たち人間は、古くは自然に、そして建築物や芸術作品に「神」を追い求めてきました。それは、人間ではとても及ばない、巨大な力を持つものでした。つまり、私たち人間は、敵わない力の存在を崇め、「神」として信仰する習性のある生き物なのです。

 この工場に感じる「美しさ」の根源は、この信仰にあるのかもしれません。私たち人間が生み出した、人間が人間らしくいることを許さないこの場所を、どうにもできない巨大な力を持つ「神」であると、感じるのかもしれません。

 そして、この「美しさ」を乗り越えた先に、「労働者の搾取」という悲劇を終わらせる鍵が、あるように思えます。

 あなたは、どのように感じるでしょうか。

 

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徘徊 ママリン87歳の夏

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徘徊 ママリン87歳の夏 2015年製作/日本/作品時間77分

 今回紹介する作品は、特集【認知症の愛】【ドキュメンタリー映画で緊急支援】より「徘徊 ママリン87歳の夏」です。

作品概要

 大阪・北浜に、とある母娘が住んでいます。認知症の母(愛称ママリン)と、母を支える娘の章子さん(愛称アッコ)です。認知症の影響で、スイッチが入ると昼夜構わず徘徊を始める母と、それを見守る娘の姿を、近所の誰もが知っています。徘徊をはじめ、想定外の行動に振り回されながらも、どこか軽妙で、ユーモラスな二人を追った、これまでの「認知症」作品の世界観を変える、アジアンドキュメンタリーズの看板作品の一つとも言える作品です。

見どころ

シュールでユーモア溢れる日常

 認知症とその介護というと、とても大変でつらいものだというイメージがあるかもしれません。しかし、本作に登場する二人は、そんな陰鬱な印象はまるで感じさせません。どこかシュールで、思わずクスっと笑ってしまうような、そんなやりとりを重ねる日常を見せてくれます。きっと、これまでの母娘の愛と絆がそうさせるのでしょうが、この作品が、今までの認知症についての暗い世界観を大きく変えたのは間違いありません。

温かい人々の眼差し

 徘徊する母を、あえて閉じ込めることはせず、見守ることに徹してる章子さん。その背景には、二人の存在を温かく受け入れる近所の人々の眼差しがあります。交番のお巡りさんや、よく立ち寄るカフェの主人。介護施設の人から、街角ですれ違う人まで、彼らの寛容な気持ちが、二人の生活をより生き生きとしたものにしているのです。この街のぬくもりは、人との繋がりが希薄な現代社会に、希望を感じさせるものです。

支える娘の、「覚悟」

 この作品で描かれているのは、認知症が「楽なもの」であるということではありません。楽し気な日常を支えている一番の柱は、なんといっても章子さんの「覚悟」に他なりません。自分を育ててくれた母が最期を迎えるまでの数年間、それに向かい合う「覚悟」を持つことは、決して簡単なことではありません。そんな彼女の気持ちの強さを知ると、二人の日常が、また違う角度で見ることができるでしょう。

 

 二人は日々、「死」についてたびたび話します。それは、章子さんが、母を支えることと同時に、母が死ぬことも、覚悟しているからなのでしょう。

 私たちは、誰もが、老いて、いつかは死んでゆきます。そのことを思い返すと、認知症に侵された母も、支える章子さんも、今生きている私たちの、時の流れの延長線上にある姿であることに気づかされます。

 現代社会のテーマの一つは「分断」であると言っていいでしょう。人種、宗教、性別、国家、そして世代。グローバル化が叫ばれた一方で、ありとあらゆる分野で「分断」は進み、他者を受け入れない個人主義が人間社会を包み込もうとしています。

 支えあう二人、そして二人を包み込む「街」の姿は、そんな社会のベクトルを変える、きっかけとなる力を持っています。今を生きる私たち人間が皆、同じ時間の流れに生きていることに気づけば、明日のあなたもきっと、あの「街」の住民に、なれるはずです。

 

 

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